ゾクゾクゾクと薄の穂ゆれる。満月。夜はトロリと油を流したように暗い。空を二つに分けて白い細い雲が横切っていた。ぽつりぽつりと彼女は語る。薄の穂はザラザラ揺れる。満月が白々と白い。風が渡っていくのが見える。遠くまで草原、空気は固く冷えて僕を凍えさせる。遠くの街の灯りがふんわりと空に光をまき散らしている。ざわざわという草鳴りと彼女のぼそぼそという声以外聞こえない。「父を殺しました」軽い声澄んだ声、内容を頭に入れる前に声の甘さだけを僕は噛みしめる。殺されたと聞いてもなにが出来るわけがない。僕は無力で駄目な人間だから、彼女の強い視線に負けて目を逸らす。「良いんです、あなたがなにも出来ないことは知っています」凛とした声で言う。「車の中に死体があります。冷凍マグロのように父は固く冷たくなっています」彼女は一歩僕に近寄ってくる。「あなたは駄目な人です。なにも出来ない人です。でも、私がここで死んでいくのを見ることが出来ます。私の事をずっと覚えていてくれる事が出来ます」なにかに憑かれたような目、ガラス玉みたいな目。手にはナイフではない、包丁。台所に在るような不器用で無骨な包丁。「すぐに忘れてやります。一生覚えていろと言うのは無理です」彼女は眉をひくりと動かす。「日々の生活に追われましょう。すぐ僕はあなたの事を忘れましょう。ゲームをしても、アニメを見ても、音楽を聴いても忘れましょう。創作をして変形させて昇華させ、あなたの存在を痕跡も無く忘れましょう」彼女は包丁を下ろす。しみじみと僕を見る。「本当に駄目な人ね」「死んでも良いですよ、僕は痛く在りませんし、悲しくもありません」「あんなに愛し合ったと言うのに」「僕が快楽を貪っただけの話です。あなたと出会ったというのはあなたの錯覚です。あなたが思っているよりも、ずっとずっと僕の駄目さは深いのです」けろけろと彼女は笑い出した。「ではあなたと一緒に死出の旅をするというのはどうでしょう?」「それも意味のない話です。冥界があるのかどうかも解りませんし、僕は移り気で落ち着きがないのです。ずっとあなたと一緒にいく自信はありません」彼女の目が曇る。傷ついたような表情を浮かべる。空には満月が輝く。風が川から重油の匂いを運んでくる。彼女は包丁を真っ直ぐに上にふりあげて、喉を掻き切る。僕はそれをずっと見ている。遠く犬が吠える。犬がやって来たら怖いなと僕は思って、約束通り彼女の事を忘れた。

text by KAWAUSO U-tan
2006/11/14
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