テキストプレイ本を作る、ということで原稿を秋山真琴に頼まれた。何を書くのかよくわからない、というかよくわかっていない、違う、というか、これって、思考を言語化できるかどうか、上手く言語化できるかどうかがとても重要な遊びということで、僕にはとても不向き、ほら、こうして、すぐに自分の話を始める、これがテキストプレイ。どうしても、書くことは尽きてしまう、一分ほどで。そのとき、何を書くかというと、自分の知っていること、自分が知っていること、つまり、自分のことしか掛けない。自分が経験したこと、自分が感じていること、自分が知っていること、自分のこと、自分の考え、自分の価値観、そういうものが、テキストプレイの本質、というか、そういうものを引き出すのが、テキストプレイの本質だと思う。もちろん、書き手によって、どれだけ自分が引きだせるかは個人差がある。けれども、思考が追いつかない状態での文章なんて、えてしてそんなもの、自分のことしか書くことがない。というより、他のものを書こうと考える余裕がない。つまり、練習がものをいう、というボクシングとかなんやらスポーツの考えと似ている。普段から意識していることや意識していない無意識下のことなどが出てくるほかない。のだ。だってそうしないと思考が生まれるまえに文章をうみだすなんておかしな作業はできっこないし、事実できないのだ。どうしようもなく、できない。綺麗な文章などできようはずがない、というのは間違いで、体に綺麗な文章がやどっている人は、きっとこうやって書いていてもかなり綺麗な文章を書くのだろう。そうに違いない。そうと信じている。ちがう、というか、異なっている、というか、ああ、語彙が貧弱で上手い言葉が出てこない。つまり、こういう書き手、僕のことだ、僕のような書き手がテキストプレイをすれば、日本語としてみるも無残な文章だけが積み重ねられていく。とても思考をまともに文章家するだけの時間はない。だからこそ、だ。だからこそ、自分のことしか掛けない、自分の今まで積み上げてきたことがとにかくこのテキストプレイという場では現れる。健在する。それだけが、テキストプレイの、いや、それだけと限定することには意味がないし、簡単に反論されるようなことは書くわけにはいかない。テキストプレイの話をしよう。テキストプレイ、と三回くらい書き続けたい気持ちに駆られる。なぜなら、そういう文章は頭を使わないから、そういう文章なら、なんというか、あ、いま、感じたのだが、集中力が気レア。ぷつんと音をたてt、頭のなかの糸が切れた。また切れた。プツン。なんなんだろう、これはもう、僕にはここまでがテキストプレイの限界である、ということだろうか。そうかもしれない。そうかもしれないかもしれない、などと無意味な繰り返しをいれるのもテキストプレイの特徴で、これをほとんど無意識的に書き手はやっている。無意識のレベルでこういう文章を面白く仕上げる人というのは、つまり才能があることだと思う。才能があることは幸福であるのか不幸であるのかそんなことはどうでもいいのだが、どうでもいいことを書いてしまいそうになる恐怖もここにはある。視界がゆがんでくるというのは比ゆ表現ではなく、なんとも名状しがあい、雰囲気、僕が自分で買ったワープロで課イアやつあかだら、ああ、どうおも来るって、あれ、ぼくは自分のことを話していない。いつのまにか、誰かべつのことを話していて、そいつは誰なのか僕には皆目検討がつかない。つまり、僕の夢の中野住人?そうなのだろうか、と考えた瞬間、僕は意識をもどして、本当に、こんなことをやっていたらいつかトランスしてしまいそうになる。こわいこわい。別にこわくはない。テキストプレイというのは、だから一つの儀式なのだと思う。心霊儀式、集中力を高め、神通力に目覚めさせるような類のものも、似たようなものなのかもしれない。あいにく、テキストプレイ中なので資料などを調べて考えることはできない。残念だ。残念といえば、意外にももう僕は断念しようとしている。というか、単に眠いだけだとおもうのだが、眠くても差喋れるというか、考えられるというか、なんなんだろう。とにかく、僕は撃ち殺した。ああ、また何か別の話と、僕の脳内で展開されていた物語とつながって、混戦して、あれ、どんどん僕伊の意識は希薄なっていくのだろうか? 不思議な体験。どんなに不思議でも、こんなに不思議なのか。とりあえず知っている単語を片っ端からいれていくというのもテキストプレイにおける有効な手段なのでやってみると正しさと美しさという二つの単語意外にはぼくはひ本当に必要なものが何かということをもう僕らの年では誰子が知っているということを、彼らが知らないはずはなかった。どこからか誰かが入り込んでくる。それは、私意外の誰かだが、私自身でもある。私はどこにでもいる。それは私の脳内だから。世界はそんな感じだ。世界もそんな漢字だ。それでも世界は回るだろうし、これを楽しむ読者もいるのだろう。どんな小説だって、もう少し、なんというか、ああ、何も考えずに文字を打ってしまった。そもそもテキストプレイなるものがおかしい。僕はおかしくないが間違っている。誰もが間違っていて、それでも意外とみんな鈍感にできている。僕はもう前がみえなくなってきた。どうしようもない。めがねをもっていない視力はかなり悪いのだが、どうにもめがねが嫌いなのだ。理由はよくわからないけれど、意識が、希薄に、ねむから、それもある、眠い。意識が。希薄に。誰もが、見たことのある、正しさと、美しさ。

text by TONO Hiroto
2006/11/12
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