小説を書くということについて考える。それもしばしば。もう少し正鵠を射るなら、暇さえあれば。
 小説を書くというのは、つまり言語化するということだ。何を? それは当然、自分自身のうちに渦巻く物語を、だろう。しかし、それってなんだと疑問を投げかける。物語ってことは、それは既に言語化されているものだろう。それとも筆を執って原稿用紙につらつらと文字を書いたり、キーボードの上で手を滑らせるまで、物語は言語化されていないのだろうか。いや、そもそも言語化するって何? 何をすれば言語化したことになるわけ?
 私たちは時に笑ったり泣いたりするけれど、それはどうして。嬉しいからか笑うのか、悲しいから泣くのか、でも笑っているからといって楽しかったり嬉しかったりするわけではないし、涙を流しているからといって悲しいわけでもない。嬉しいや悲しいというのは言葉だ。そして言葉の効果によって私たちは笑ったり泣いたりするのではない。それら、動きは感情から生じるものだ。しかし感情とは何ぞや。それは言葉とどう違うのか。私たちは本当に嬉しかったり悲しかったりするのだろうか、それとも「嬉しい」だとか「悲しい」だとかそういう言葉を思い浮かべることで、そういう感情になっている気分に浸っているのだろうか。ぬるま湯に。
 そこのところはよく分からない。考えるってことは言語で考えているわけだけど、私たちが小説に書くのは必ずしも言語で考えられた物事ではなく、そういった言語では言い表せない感情だってあるだろう。とりあえず、私たちの中には言語化できない感情があって、それをどうにかして言語化する試みのひとつとして私たちは小説を書くことがあるということにしておこう。そうしないと話が進まない。
 つまり小説を書くというのは、言語化するってことで、それは言語化できない私たちの感情を、どうにかして言語化するってことだ。さらに、私たちの中には言語化できない感情の他に、既に安易に言語に当てはめられてしまっている感情もあって、しかし、それらは言語の制約を受けていて、他人との正確な意味での共有は出来ておらず、それらが私たちの未だ言語化されていない、生の、自由の、感情を言語化してやろうと邪魔しようとしていることを自覚しなければならない。仮に邪魔されることなく、言語化できない生の、自由の、感情をそのままに言語化することができる機会が巡ってきたとして、では私たちはどのようにしてそれを言語化すればいいのだろうか。私たちひとりひとりの、固有の感情として、いかに言語化すればいいのだろうか。そのときに用いられるのが物語、ではないだろうか。
 たとえば親しいものが死ぬ話。長らく連れ添った恋人が死ぬとき、私たちは何らかの感情に揺り動かされる。それは悲しみかもしれないし、虚しさかもしれない。そして私たちは涙するかもしれないし、叫ぶかもしれない。しかし、ただ「恋人が死んだ、悲しかった」と書かれても、それを読んだ私たちは悲しくも虚しくもない、その一言に万感の想いが込められていたとしても、私たちはそれを受け取ることができない、共有できない。ではどうすればいいか。
 物語るのだ。
 主人公とその恋人の半生を読ませ、読者に主人公と同等の愛着を恋人に抱かせ、その上で恋人を主人公=読者から奪ったとき、主人公が感じた悲しみや虚しさやそれ以外の何かは、同時に読者も味わうことになる。
 問題は「それ以外の何か」。「それ以外の何か」は言葉にできない、言語化できない観念もしくは感情。それは言語化できないので、それ以外の千の言葉でもって代替するしかない。それゆえの物語だ。しかし小説は掛け算だ。千の言葉が塵芥のような一であれば、それをいくら積もらせても一にしかならない。一は何回かけても一だからだ。だから私たちは二を書く、三を書く。最終的に読者に与えられる感動を六にも十にもしたいからだ。しかし、数字には限界がある。ひとつの科白や言葉が与えられる感動には限界があるし、ただひたすらに文字を重ね、原稿用紙にして何千億という枚数を書いたところでやはり限界がある。したがって私たちが探すべくは、無限大の感動を与えうる、畢竟の一言とも言うべく生の、自由の、感情。
 本当に恋人を失った人間にしか言えない科白。
 そのたった一言の重み。
 そんな無限大の効果を持つ言葉が作中に一箇所でもあれば、主人公と読者を結ぶ等号は成立するだろう。しかし、思い出してほしい。「それ以外の何か」は言葉にできない、とは先ほど言った。つまり「本当に恋人を失った人間にしか言えない科白」は幻想であり、仮に私が以前に(死別というかたちで)恋人を失っていたとしても、私が言った科白に読者が重みを覚えるとは限らない。……その筈だが、あれ、本当に、そうだろうか?
 本当に私たちは今まで一度たりとも、たった一言の重みを見いだしたことはないだろうか。物語の終盤で見せる主人公の絶叫に、私たちは一度も涙を誘われたことはないだろうか。
 この問いに対して、もしあなたが「ない」と断言できるのであれば、あなたは私たちの中には含まれない。逆に「ある」と答えたならば、あなたは私たちの側にいる。
 考えてみよう、たった一言の重みを有する科白とは。
 生の、自由の、感情とは。
 それは自動的なものではないかと思う。
 自分自身のうちにあってけして言語化できない感情を、いかにして言語化するのか、小説に書くのか、果たしてそんな方法があるのか、この世のどこにそんな小説があるのか、今までに誰かがそれに成功したのか、そもそもそんなことが可能なのか。
 私は「ある」と答えたい。何故なら、もし、もしもだ、もしも「ない」のであれば、私たちは小説を書く意義を失ってしまうかもしれないのだから。
 では、いかにして不可能と思われる、言語化できない感情を言語化するか、私は自動的になることで、それが可能になると考える。
 自動的に書く、もしくは自動的な存在となって書く。
 自動的な存在となったとき、私たちは思考の、理性の、戒めから解き放たれる。言語から解放され、自由になった私たちは、そのとき初めて先入観なく、感情に触れることができる。そして私たちが持ちうる限りの語彙を用いて、その感情を言語化することができる。いや、そこに言語化する、という明白な意識はない。ないはずだ。理性を手放し、自動的になった私たちは、生の感情に自由に触れることができる。掌のうえの感情を、私たちは握りつぶすことも、紙に書き写すことも可能だ。そこに書き写された感情は、きっと本来の、生の感情に限りなく等しいだろう。だから私たちは、理性が戻ってきたとき、言語による思考という枷を再び受けたとき、驚き慄くだろう。けっして言語化できないと思っていた、理性の手に負えないと思っていた感情が、紙の上に生きて踊っているのだから。
 これが私の解だ。
 けっして、絶対に言語化できない私たちの感情を言語化すること。
 それは、私たちが自動的な存在になってしまうこと。それは言葉を、理性を捨てること。
 理性を手放し、自由な存在となった私たちならば、言語化できないはずの感情を言語化することも可能である。
 では、いかにして自動的な存在となるか。
 私は調べた。そして見つけた。
 既に私たちが目指すべき彼は存在していた。
 彼は第一次世界大戦後のパリにいた。
 時は一九一九年、彼の名はアンドレ・ブルトン。

 アンドレ・ブルトン。
 一八九六年二月十八日、ノルマンディーはタンシュブレー地方に生を受け、戦後においてダダイスムという芸術運動に参加するが、後に離反しシュルレアリスム宣言を行ったうえでシュルレアリスムを創始。その後『シュルレアリスム革命』の編集長となり、シュルレアリスム運動の中心に君臨する。
 まずはシュルレアリスムという言葉に取りつく誤解を取り除くところから始めよう。
 シュルレアリスムは日本においてしばしば超現実と訳されるが「現実を超越している」の意ではない。正確には巷で女子高生が「ちょうムカつくー」と言っているのと同じく「過剰に現実」なのである。
 では現実について考えみよう。現実って何? それは確かに現実とは何であるかと考えたときにだけ人間の思考に現れる幻想と言っても間違いではない。何故なら、私たちは誰一人として、現実をそのように認識できたことがないからだ。
 眼、そして脳髄の問題がある。たとえば、あなた。あなたが今、何を見ているか。私の文章を読んでいることだろう。しかし、おかしいことだとは思わないだろうか。今、私は「私の文章」と言ったが、落ち着いて考えてみよう。これは真っ白い紙に浮いた黒いインクの染み以外の何物であろうか。いやいや、これもおかしな話だ「真っ白い紙」? 確かにパッと見は真っ白い紙だが、じっくり見てみたら表面には無数の傷やごみが付着しているのではないだろうか。そして、これこそが肝心。もしあなたが日本語を解さなかったとしたら。この一冊の同人誌は無用の長物だ。現実とはつまりそういうことだ。現実にしか存在しない、そして私たちは現実の中にいて、現実を観ていない。私たちが見ているのは、現実を見ている目が取り込んで脳に送り込んで、それにバイアスをかけた情報だ。
 未だ誰も現実を見たことがない。
 だがしかし、それは私たちがそう思い込んでいるだけで、私たちは実はそれを見ている。
 そしてそのことは、自動的な存在になることで、記憶の奥底にある生の情報に触れることで自覚することができる。しかし、自覚には言語が伴なう、言語を介した瞬間にその新鮮性は失われ、それは現実ではなくなってしまう。最後まで、自動的な存在でなくてはならない。私を自動的な存在にしたままに言語化する手段。ブルトンが用いた手段は、自動記述だ。
 自動記述を試行してみよう。まず机に向かう。机の上には紙を、手にはペンを。まだ何も考えてはならない。深呼吸する。用意が出来たら書き始める。書き記すのは考えていたことではない、その瞬間に思いついた出来事だ。それを書き記す。紙に書く、書く、ただひたすらに書く。そして、速度を上げる。やがて紙に書くべき「その瞬間に思いついた出来事」が枯渇し始めるが、それでも書く。思考が先行し、しかる後にそれを書き写すのではなく、むしろ思考をそのままに書き残すという印象に近い。しばらく書き、そしてさらに速度を上げる。すなわち、思考以上の早さで書く。書いてから、視界の隅で捉えた文字を読み、そうしてようやく自分の思考を理解するぐらいの速度で書く。そこで覚悟を決める。さらに速度を上げる。自分が書いた文章を確認するという余裕が失われる、書くことだけしかできなくなる。思考の喪失とは理性を手放すこと、言語の拘束を受けない、生の感情が記述され始まる、さらに、さらに速度を上げる。
 以上が自動記述である。
 そして、これこそが私を自動的な存在に置き換え、言語化できない感情を言語化する方法のひとつである。
 しかし、唯一ではない。ブルトンは速度を上げていくことで、つまり加速することで自動記述を行うだけでなく、徐々に速度を下げる、減速する自動記述も試行しており、これにも成功していた。私はむしろ減速にこそ文学を見いだす。何故なら極限まで加速した自動記述は、強烈な、生の、自由の感情が描き出されている一方、他者との共有に失敗することが多いからだ。
 生の、自由の感情の肌触りを知りたいだけであれば、ただ自動的な存在になって、自我の中にたゆたえばいい。しかし、それを小説に、言語化するのであれば、いやいや。回りくどい表現はもう充分。もう充分、書いた。そろそろ単刀直入に言ってしまう。
 文学とは言語化できない感情を言語化し、他者に読ませること。
 では文学するにはどうしたらいいか、それは自由自在な自動記述を身につけること。
 そのためにはどうしたらいいか、ひたすら加速と減速を繰り返す、である。
 私は思う。コンピュータの存在する現代の、加速の自動記述とは、すなわちテキストプレイに他ならないのではないか。
 だからこれは提案だ。
 文学2.0。
 私たちはテキストプレイという手段を用いて文学してみないかね、という。

text by AKIYAMA Makoto
2006/11/12
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